10/10, 240日目 最終日
留学、240日のアフリカ生活が今日終わりを告げる。
2月に始まった南アフリカ共和国での生活。130ページ超に渡る個人の日記を今見返してみても、本当にあっという間だった。
このブログも含め、記録の大切さをしみじみと感じる。想いの変遷を辿るのは不思議な感覚だ。240日、120日、60日前のそれぞれの自分の姿がありありと目の前に現れてくる。
ただの文字の羅列が、魔法のように世界を描き出す。
この留学で自分は何を学んだだろう。最後のインターンを終え、帰途に就く中、ぼんやりとそんなことを考えていた。
正直なところ、単純な英語力やエンジニアとしての技術力は、日本で専心していた方が伸び幅は大きかったかもしれない。
留学としての成果は、人によっては大したことが無いと思うかもしれない。
だが、これでよかったのだ。
この言葉を、ようやく何のわだかまりもなく、言葉として発することができるようになった気がする。
この240日で、本当にたくさんの、これまで知らなかった世界を見ることができた。その度に、考え、咀嚼し、時には受け入れることもできずに、一つ一つと向き合ってきた。
自分の弱さも、他人の弱さも、人間の弱さも、その強さも、美しさも、全てをひっくるめて、静かに見つめる時間があった。
今、手元に残っているのは、ほんの小さな想いの欠片だ。これを見つけるまでが、持っていることに気づくまでがこの240日だった。
これは、実際の目に見えるものではない。そんなものに価値はないと、冷ややかに言う人も今の社会にはたくさんいるだろう。
数字、大きさ、範囲、力、この世のあらゆるものは数値化することができ、大きい(もしくは小さい)ほど優れていると考える人は今も昔も変わらずに存在する。
それらを否定するのではない。ただ存在するのは、それらに捉われ、縛られ、苦しんでいる者がいる事実だ。そして、その苦しみは往々にして無自覚である。
競争は、他者の存在があって初めて成り立つ概念だ。競争の中で社会関係の存在と意義を見出す者もいる。しかし、他者との関係は競争という属性だけに留まる訳では無い。
信頼、愛情、憎悪、羨望...競争の要素を含みながらも、それだけでは説明のできない概念は山ほど存在する。
Ubuntu、これも他者との関わりを表わす概念の一つだ。自分がアフリカから学んだ哲学はただ一つ、このUbuntuだけだ。
Ubuntuの概念は一言に説明することは出来ない。あらゆる具体を削ぎ落し、抽象するのであれば「自己という存在は、他者を通じてのみ存在する」というところであろうか。
アフリカの社会ではこれが助け合いや共生の思想として幹を伸ばし、その葉と花に現れ実を結び、国を越えて根を張っている。今も何がUbuntuかをはっきりと論ずることはできない。しかし、その精神はアフリカに広く共通している。
「哲学で胃を満たすことは出来ない」
このことは、今もなおアフリカが最貧国の数々を抱えている現状を揶揄する言葉だ。真に優れた哲学を有するのであれば、なぜアフリカはいつまでも苦しんでいるのか。こうした疑問を投げかける人もいる。この答えには、開発経済学からのアプローチ、政治学からのアプローチ、様々なアプローチが考えられるであろう。無論、絶対的な貧困に苦しむ人々の現状は想像を絶する。希望が心の淵に追いやられ、二度と立ち上がれなくなってしまう人も、悲しみが枯れてしまうほどに存在する。しかし、それを承知で言いたい。それだけではないのだ。単なる数字や、物資の豊かさや、発展の度合いでは測れないものが世の中には"確かに"ある。月並みな意見であろう。だが、声を高らかに叫びたい。
「本当に大切なものは、目に見えない」
どんなに空虚な叫びに聞こえても構わない。どんなに貧しくとも、その心に自分の王国を持つ人たちをたくさん見たのである。なぜそんなことができるのか。分からなかった。全く分からなかった。
心のどこかで、幸せが競争の果てにあるとまだ信じていた。満たされない想いを、他者との比較で宥めようとしていた。
自分の王国を持つ、とは自分の納得する世界に生きることである。この「納得」が単なる一語では片づけられない。優れている、という言葉は暗黙に他者との比較を含む言葉だ。あまりに、自分たちはこの言葉を無自覚に使ってきてしまったように感じる。「納得」するために必要な要素は何であろうか。自分たちは、他者との関係を「納得」のためにばかり用いてこなかっただろうか。
他者の存在があって自分は初めて存在する。その上で、自分の王国を見つけること。これらの両立には、おそらく二つの方法がある。
一つは、他者を座標に用いる方法。
もう一つは、関係自体に価値を見出す方法である。
優劣は無い。何が良いと思うかは、自分で決めるしかない。
自分は、後者の生き方をようやく、そのものとして理解できた気がする。そして、Ubuntuはまさにそうした生き方だ。
「自己という存在は、他者を通じてのみ存在する」
抽象された概念は多くの意味を読み手の解釈に委ねる。
人は、どこまで行こうとも、他者の存在なくして生きることは出来ない。それは物理的には可能であっても、精神的には不可能だ。
では、他者は精神においてどのような意味を持つのだろうか。
他者は、何らかの形で精神に作用する。自己が受動的に作用を受けるかもしれない。能動的に他者に働きかけ、作用を得ようとするかもしれない。その影響も、精神に対してあらゆるベクトルを持ち得る。
そうした影響の積み重ねで、精神は一つの風を生み出していく。
「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる」
見つけるものはそれぞれの答えだ。小さな王子がただ一本のバラを愛おしいと思ったように、それぞれの人間は自分の答えを見つけて初めて"創られる"。
見つける道もまた人それぞれ。ささやかな日常にそれを見出す者もいれば、極限の中で運命的な出会いを果たす者もいる。何が優れているとかの次元の話ではないのだ。
今、自分の手にある小さな欠片は、他者に見えることはない。しかし、それに気付かせてくれたのは他者であり、自分である。
自己という存在を考えるのは自分でも、そこには他者が介在していた。そして、その他者には、知っている知らないに関わらず、自分にとって大切な関係があると感じている。
これが、Ubuntuと言えるかは分からない。しかし、おそらくはこれもUbuntu、と彼ら・彼女らは温かく迎え入れてくれるだろう。不思議な幸せの形がそこにはある。もちろん、これまでにそうした幸せの存在を知らなかった訳ではない。不思議なのは、この静かな幸せがどこまでも続く気がしていることだ。山のように、海のように、自然のように、変わらずに存在する悠然さを肌に感じている。
これが留学で得た自分の成果だ。おそらく、完璧な説明はできないし、その必要も感じない。ただありのままを語ることは出来ても、それはその人の答えにはならないであろう。
逆説的だが、他者を通じ、自分で自分の王国を見つけるのである。ここで説明が終わることに不十分さを感じるかもしれないが、この文章が考えを整理することを第一義にしている以上、更なる記述は難しい。これが、自分の中では整理された今の考えである。
ケープタウンをいよいよ発つ。今度ばかりは小旅行ではなく、しばらくのお別れだ。しかし、必ず戻ってくる予感が既にしている。
「アフリカの水を飲んだ者は再びアフリカへ帰る」
これはそんな予感を裏付けてくれそうだ。
日本食も日本人との接触も少なかっただけに、帰国後に何をしようか頭が働かない。しかし、日本人なら着いたら着いたで水を得た魚のごとく、何か食べたくなるのだろう。
色々なものを少しずつ楽しみにして、帰国する。
Thank you so much Mother City Capetown, South Africa and Africa.