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雑記

哲学

06/03, 111日目

1か月近くかけて、知り得る範囲での哲学の復習をしてみた。古今東西、思想の数々。改めて見つめると、昔学んだ時とは感触が異なることに驚く。Kindleにはめちゃくちゃお世話になった。ハードの可能性はやはり魅力的だ。帰国したら読みたい本も山積みになっている。意外と、前回書いた範囲で答えは出ていたから、その確認作業のようだった気がする。

いたってシンプルだ。答えを自分で見つけること。自分が納得できて、人生をかけられるような答えを見つけること。それだけだ。「偉人」を何かを成し遂げた人と定義して、「偉業」を称えるもの(善いもの)とするのならば、偉人はすべからく各々の答えを見つけている気がする。何かに懸けるとは、そういうことだと思う。

ただ、なにも必ず偉業を成す必要はない。形ではなくて、自分で見つけているということ。「勇ましい高尚なる生涯」との関連がここで、一層深みを増してくる。

答えを見つける道のりは人によって異なると思うけど、だいたいは険しくてつらいものだと思う。そして正確には、自分はまだ答えを見つけていない。自分で答えを見つけることが、自分とは何か、人間はなぜ尊重されなければいけないか、そして人はなぜ生きるのかという哲学の命題に対応するのではという気付きを得ただけだ。

でも、ここまで到達したのは自分の思考の結果だ。ある意味、一つの答えと言えるかもしれない。そして、答えにつながるようなものは得られた。残り4か月、それどころか人生の残り数十年をそれに懸けられるか。まだ自信はない。

歩みが遅くても、やってみようと思う。今は不思議と穏やかな気分に満ちている。自分で発見するという一つの利点がここにあるかもしれない。自分以外の影響で揺らぐことがないというところ。正確には、全く影響を受けないわけではないと思うが、ずっと考えてきた命題において、他者の影響は決定的なもの足り得ないことはもう分かっている。

陳腐で使い古された表現だけど、あらゆる点は確かに繋がってくる。ほんの些細なものであっても。もし、その中で他人に薦めることのできるものがあるとするなら、それは本だと思う。そして、同じ本であっても自分の知識や経験の蓄積と共に、その意味合いが異なってくることを静かな空間の中で学んだ。はるか昔から、子どもであったりおじいちゃんであったりがこう考えてきたという道筋。哲学書でも、物語でも、書いた人は何かしらの生き方をそこに投射している。長く付き合える本はきっと、良い本だ。

映画でも漫画でもアニメでも良い部分はあるけど、本を推したいのはそれが常に自分との対話を求められるものだからだと考えている。アドラー(なんだかの勇気の人ではなくて)がそんなことを言っていた気がする。文字だけというのは、脳みそのあらゆる部分を使って取り組む対象だ。

大きな発見でも、コペルニクス的転回が起きたわけでもなく、静かな気づきだと思う。「あぁ、そうか」という程度の穏やかなつぶやき。朝が来たというよりは、暗闇だと思っていたものが実はほんの薄暗く見えることに気付いて、いつの間にかほんの少しずつ、ゆっくりと明るくなっていっていくような感覚。ケープタウンのさんさんと輝く空にはまだほど遠いけど、やっぱり、出口のないトンネルはないと思う。