10/22, 46日目
出発から1ヶ月半が経つ。南アの留学の頃と異なり、不思議と故郷を恋しく思う気持ちがある。食べ物や景色というよりも、匂いや思い出のようなぼんやりとした空気を懐かしく感じる瞬間がある。
ふとしたきっかけで、現在の仕事であると役に立つと思ったシステムを構築した。ざっくり書くと、日次の紙での記録をデジタルに簡易に済ませ、あとの処理は全てデジタルに自動化するというものだ。
ユーザーはコミュニティ内の人間に限られるものの、紙の記録からあーでもないこーでもないと不定期にやり取りが発生する未来が見えたため、他人のためというよりも独善的に開発をした。仕様は練り込んだおかげで、GAIとの伴走により2時間程度で仕上がった。
商用のシステムや取り扱うデータ次第では、セキュリティの面もかなり配慮をするが、今回は特段懸念されるリスクもなかったので、対象者に利用の周知をして運用を開始した。日々の作業前に、10秒もかからない入力作業を行うだけである。
システムの開発前後のやり取りでは、多くの人がわざわざ労いと称賛の声をかけてくれて、独善的なボランティアながら嬉しい気持ちはあった。問題は運用開始後である。
上述の通り、利用者の負担は限りなくゼロに近いのだが、運用ルールに基づいた入力を行ってくれるユーザーが100%に達しない。後回し人間も、極めればここまで至るのかと、驚きと呆れのため息がこぼれる。
そもそもは、記録を集計して管理する人の手間をデジタルの力でゼロにできると算段があってシステム化したものであり、他人への配慮の気持ちがあれば実行は容易い。どうしても、だらしない人に対してはその人の本性が透けて見えるような、残念な気持ちを抱いてしまう。
といっても、ほとんどの人は対応はしてくれており、不届き者が多数いるという訳では無い。この件で自分がストレスを感じてしまうのは本末転倒なので、一つの教訓として受け止めたい。
教訓は、「ユーザーの善意を100%とした前提のシステムは構築・運用するな」ということだ。おそらく、入力を100%にするには実害のある罰則・罰金のような仕組みでないと、実効性はないのだろう。(法の意義)
キングダムでは、李斯が「法とは願い!国家がその国民に望む人間の在り方の理想を形にしたものだ。」と言う台詞があるが、ルール(法)の本質であると改めて思う。
勤怠管理では、皆が報酬を正しく受け取れなくなることを恐れて、期日までに入力を欠かさず行うことで、自分の不利益を回避する。一方で、今回のシステムは不作為による不利益はユーザーに生じないため、このような入力漏れが発生する。
経済合理性でしかモデル化できないことにどこか虚しさも覚えるが、普遍的な原則のように思える。入力に関して、なりすましの悪戯が発生していないだけまだマシと考えよう。
ふと、似た文脈で論じている人がいないか検索してみたが、内田樹さんのブログが目に留まった。以前、後輩が薦めてくれた「日本辺境論」が想い起される。
「お願いだからまともな大人に育ってくれ(そうでないとこの社会は持たない)」との言葉に、心からそう思う。自己中と他者を慮る心は、矛盾するものではなく両立できるものだ。自己の確立と、それが同じように他者に成立すると尊重する気持ち。Ubuntuも愛も、そこから始まるとしか思えない。