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03/10, 26日目 憲法と国家についてちょっと考える

到着から26日目、おおよそ一か月。

ここケープタウンは現在夏。気温は高いけど、湿気が少なくカラッとしているのでとても過ごしやすい。生活とインターンにも慣れてきて、英語で夢を見るくらいにはなったが、更に学びを最大化するためには何をすべきか、という門の前に立っている気がする。慣れは余裕を生むし、余裕は自由に使える時間が多くなることを意味する。空いた時間でこのサイトを作った。サイトタイトルにもあるように「記録」としての一面を強調していきたい。

インターンで主に行っているのは政府の絡んでいる社会問題に対するmonitorとadvocasy。現在、南アフリカでは社会保障の受給を担うシステムに「とある問題」が存在する。それは、システム構築に関わった民間会社の不正入札や、年金・補助金からの不明な引き落としだ 。

なかなかにのっけからヘビーな話である。簡単に状況を説明すると、2012年、政府は社会保障費(年金、育児補助金、障がい者手当...)の管理とコストカットのためのシステム化を行った。ここで言うシステム化は受給者情報のデータ化、ATMによる受け渡しなどを指す。システム開発者は一般競争入札によって募り、CPS(Cash Payment Service)という会社に決定したが、憲法裁判所は2013年にこの入札を情報の不透明性などの理由から違法と判決。裁判所は可及的速やかな再入札の開始を行政側に求めた。しかし、既にシステムは運用開始後であり、社会保障の受給は国民生活の「臓器にあたる」重要なものであるため、違法性を留保した上で現行システムの継続を認めた。再入札自体は幾度か試みられたものの、新たにシステムを構築できるような適格な入札者は現れなかったため、今日に至っている。

更に問題を過熱させているのが不明な引き落としだ。社会保障の受給者は国発行のキャッシュカードと銀行口座が割り当てられるが、その口座から通信費や電気代、死亡保険などといった名目で口座名義人の承認を得ていない引き落としが継続的に行われていたのである。ただでさえこういった受給者は1日数百円以下の生活を送っていることも多く、その影響は想像に難くない。なお、これらの引き落としの返金処理は完了しておらず、使途についても不明確となっている。憲法上保障されているはずの生存権が脅かされている、というのが市民側の主張である。

現行システムの契約は2017年3月31日、つまり今月末までの5年契約であり、再入札がままならない状況で、Social Grants Crisis(社会保障の危機)として連日メディアに報道されている。

ところで、「憲法裁判所」という言葉が耳慣れないものかもしれない。1994年、アパルトヘイト廃止後の総選挙、ネルソン・マンデラが大統領に就任し、現在の憲法が暫定憲法に代わって制定された。憲法裁判所はその中で特別裁判所(通常裁判所とは異なり、特定の主体・対象のために設置される裁判所)として位置づけられており、憲法判断そのものや、下級審からの控訴・上告も受け付けている。制定にアメリカが大きく関わっている日本の憲法と比較すると、憲法判断までも単独で行えるという点に大きな違いがある。

日本国憲法では第76条第2項にて「特別裁判所は、これを設置することができない」と定めており、明治憲法下で存在した軍法会議などの反省からも、司法の独立性・公平性を図っている。なお、日本の場合は日本国憲法第81条にて最高裁判所が違憲審査権を行使できる旨が記載されている。つまり、最高裁判所が違憲審査制の要であり、通常の裁判を進める中で憲法判断が論点となった時に初めてそれが行われる。

憲法裁判所の設置はたびたび日本でも叫ばれているが、メリットとデメリット双方が指摘されている。メリットとしては憲法判断が重要な問題について司法が明確に決定を下せること。現状は内閣(行政)による解釈が重要性を持つ。例えば、「自衛隊は違憲では?」という日本の事例はよく話題になるが、司法による判断ではなく行政の解釈によって違憲ではないとされている。憲法判断に関しては、法学部生のみならず知っていることも多い「統治行為論」という考え方があり、高度な政治性を有する問題は裁判所による判断が理論的に可能でもそれを対象から除外する―――としてきた。砂川事件や長沼ナイキ訴訟が良く例に挙げられる。こうした理論にも根拠づける学説はあるのだが、日本は憲法判断に消極的だとされてきた。違憲判決の数は数えるほどしかない(現在10)。誤解を恐れずに言えば、日本国憲法のベースを作ったアメリカの違憲判決数は200を越える。多ければいいわけではないが、仮に違憲審査権を司法が積極的に行使できないとすると、憲法に違反している状態を是正することに消極的とも捉えられる。それを改善する一つの手段としての憲法裁判所設置論、というわけである。デメリットとしては、憲法判断そのものを目的とした訴訟が可能になることで、社会機能の根幹に係る憲法についての審理が増加し、大きな停滞につながるのではという懸念がある。

憲法とは国家がどういった規範によって統治されるべきかを示す枠組みである。時の政治によって左右されず、国民の自由と権利を保障するものでなければいけない。それ故、安易に変更されるべきではく、憲法に反する場合は憲法を変えるのではなく反する手段を変えるべき、というのは「立憲主義」の基本かもしれない。これは日本も南アフリカも同じである。

ここ南アフリカ共和国では、憲法裁判所の存在が示すように、憲法裁判所への供述書(affidavit)提出及び憲法判断を市民から提起できるのが日本との大きな違いである。そして、インターン先である人権NGO、Black Sashは先月末にその権利を行使したばかりであり、非常に貴重な勉強の機会をいただいている。社会保障の受給は憲法によって保障された生存の権利に関わり、それらから民間の手によって不正な引き落としやシステムの構築が行われてはならない、というのが主たる主張である。まさに、被告であるSASSA(社会保障などを管轄する省)との対決の最中だ。既に国会に2度足を運び、会議室で大臣の話を聞くという体験もした。大臣からすれば謎のアジア人である。

インターン生として作成した図

こうして憲法について考えたり、実際に社会保障費を受け取れずに困窮している人々のヒアリングや、改善のためにどうした行動が必要かの議論をする中で、国家の役割が非常に大きく影響していることを再確認している。社会企業やempowermentを否定するつもりではないが、「国は何もできないから...」と端から決めつけ、その理解と協力を怠ることは文字通りの怠慢ではないだろうか。政府にしか解決できない領域は現にこうして存在している。アフリカにおける国家、政府機能、そして憲法の重要性を説いたRobert Guestは、アフリカ大陸における貧困の最たる原因について一刀両断している。

アフリカが貧しいのは、政府に問題があるからだ ("THE SHACKLED CONTINENT"より)

資源が豊かで、人口も増加しており、先進国から新たな技術が水平に入ってくる中で、何が貧困の原因であるか。もちろん単一の回答はないだろう。しかし、全ての人は国家に生まれる時代である。国家にしか縋れない人も当然にいる。政府の問題を解決するにはどうすればいいか。そして市民の、それも外国から来た自分にそこで何ができるのか。そんなことを考えながら、眠いので今日は寝る。