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雑記

ロベン島

06/13, 121日目

最近は色々なことがあり、書いて整理したいことが大きく三つある。

・6月7日にWestern Capeで発生した未曽有のハリケーン。世界的な異常気象の増加と、「最も貧しいものが最も苦しむ」という環境問題の現実。そして、関連して先日のトランプ大統領によるパリ協定脱退表明について。

・これまた先日のランサムウェア、通称”Wanna Cry”の世界的な被害。従来の「南北問題」の中に「サイバーセキュリティ」の領域が新たに拡大していることについて。例えば、南アフリカ共和国は大手情報セキュリティ会社の報告によると、ロシア・中国に次いで世界で最もCyber Crimeの被害が大きな国だとされている。

上記二点はいずれも国際法が関与する。

三点目は「ロベン島訪問と、ネルソン・マンデラの後世への最大遺物について」

タイトルで既に決まってはいたが、今日はロベン島について書く。また後日、残りの話題についても知識を改めて書いてみたい。

今日、6月13日にロベン島へ行ってきた。

ロベン島とは、ケープタウンの港から船で30分ほどの場所に位置する小さな島である。

この島はユネスコの世界遺産に登録されており、今では南ア観光において外せないものとなっている。既にご存知の方には悪いが、何がこの島を特別なものにしているかというと、起源はアパルトヘイト統治時代にさかのぼる。

もともと、島の周囲の海流の強さから、逃げ出すことが困難だと考えられ、刑務所としての利用が始まったのが17世紀の終わり。日本でいう隠岐や佐渡をイメージすると近いかもしれない。

第一次・二次世界大戦中は外国勢力の侵略を防ぐために要塞として利用された。1959年からは政治犯の収容所としての使用が始まり、当時の反アパルトヘイト活動家の多くがこの島に送られた。

何を隠そうこの中にネルソン・マンデラ、ウォーター・シスル、ゴーバン・ムベキ、アーメド・カトラダといった南アの後の歴史に大きく貢献する人物たちの名前がある。

以前の記事でちらっと書いたが、彼らはシャープビル虐殺事件、それに対する武装闘争を罪に問われ、リヴォニア裁判にて終身刑が言い渡された。その終身刑に服することになったのがこのロベン島である。

1964年6月13日、マンデラらは収監された。そう、53年前の今日である。

マンデラとできるだけ同じ島の気候、匂い、風景、雰囲気を感じてみたくて、ケープタウン到着から4か月も我慢してようやく訪れることが出来た。その甲斐はあったと思う。不思議なもので、今日は滞在121日目であり、ちょうど240日ある自分の留学の残り半分のスタート日である。ちなみに出発した2月11日はマンデラが釈放され、ケープタウンの市役所にて伝説的なスピーチを行った日であり、何か感慨深いものがある。

話が少し逸れたが、ロベン島には9時の船で向かい、およそ3時間ほどのツアーに参加してきた。基本的にバスにて島の各所をめぐり、最後にマンデラらが収監されていた刑務所を見て帰途につくというものである。

島の風景については「マンデラの名もなき看守」や「マンデラ 自由への長い道」の映画を見たことがあれば見覚えのある場所がたくさんあると思う。ガイドの人と話をしても、建て替えなどは行っておらずほぼ当時のまま風景が保存されていると聞いて、実際に目にした時の感動は大きかった。

刑務所

カモメのたくさんいる港、刑務所へ続くゲート、採石場、駐在員たちの家や運動場、そして監獄。映画については多少誇張されてる部分もあるが、当時この場所においていわゆる人権が尊重されていた点は殆ど無かったと聞いた。ちなみに、監獄内を案内してくれるのは当時収監されていた人々で、彼らからマンデラや他の「同志」の話を聞くことが出来る。

ロベン島がプラスの意味で果たした役割の中には、その後の南アを支えるリーダーのための学校であった、という点がよく指摘される。これはマンデラやムベキによってもよく指摘されているところで、1995年に20周年として開催された"元"政治犯たちの「同窓会」では「我々は学士取得者もたくさん送り出した」と言って聴衆を笑顔にしている。

最も目玉であろうマンデラが収監されていた部屋は、おそらく壁の塗装は塗りなおされているものの、目の前にした時、得も言われぬ感覚を覚えた。3畳か4畳ほどのとても小さな区画。鉄格子の扉と窓。置かれたのは粗末なテーブルとバケツ、寝床用のカーペットと毛布のみ。囚人はトイレを自分の区画のバケツで済ませ、毎朝それを捨てるところから一日が始まったという。

マンデラの部屋

この場所で18年間を過ごしたという事実が信じがたいものだと改めて認識した。マンデラの著書、Long Walk to Freedom では獄内での孤独や精神的な辛さがありのままに綴られている。

他の区画も一つ一つ見つめ、そう遠くない過去にここに捕らわれていた人々へ想いを馳せた。ここで多くの人が自分に問い直すであろうことが、「もし自分が捕らわれる身だったら、どうしただろうか」というものだ。

マンデラや他の同志のその後の人生を見ていて最も偉大だと感じる点がここにある。自分たちを虐げてきた人々を赦したという点だ。言葉では簡単に見えるかもしれない。しかし、「赦す」ということがどれだけ難しいことか。ましてや仲間や家族の命や生涯を脅かした相手にそれを行うのは想像を絶するものだと思い入る。

マンデラは幼いころからキリスト教の考えを学んでいたが、彼は間違いなくキリスト教で言う「隣人愛」の考えを体現した人物である。憎しみの連鎖を断ち切るためにそれが必要だと分かっていても実行できる人はおそらく少ない。今日でも多くの示唆のある偉大な実績だ。

まさしく彼の遺した財産の一つであると思う。人々が手を取り合って生きていくには何が必要か。理想論だとは全く思わない。今の世界に必要なのは、それをどうやって実現するか考え抜く姿勢だ。そして、マンデラらはそれを考え続けてきていた。死をも恐れなかった彼らの覚悟は、自分にはまだまだ測ることが出来ない。

4か月を過ごしてみて、といってもケープタウンやヨハネスブルグの人々しかまだ直接的に関わっていないが、この国の人々はその歴史をしかと胸に抱いている。誇りと、教育と、力を、正しい方向に向けようと専心している。そのパワーは今日でも至る所で感じることができる。

建国の父がより身近になった、そんな一日だった。やはり、今日この日に、この島に訪れることが出来たのを嬉しく思う。